宇宙根源の気・プラーナで自由への道を歩む②!
●宇宙根源の気・プラーナで自由への道を歩む②!
この世の中(物質宇宙)は常に動き続け変化しています。
現在進行形 ~ingの世界です。
人間の生死も変化の側面であり、すべての生命が動き変化し続けている世界です。
私たちは、身体と心を道具として認識しこの世界を生きている存在です。
動き続けている世界は常に変化しており、そこにエはネルギー(気・プラーナ)があります。
気・プラーナのトレーニングの第一弾は、このエネルギーを認識し、活用するところから始めます。
そして、気・プラーナでとことんこの世界を遊びます!
最高な遊びにするためには、気・プラーナを最大化すると遊びが深まります!
【心・マインドから気・プラーナを最大化するためには】
私たちの身体のほとんどの細胞が5~7年で入れ替わると言われていますので、もう子供の頃の細胞は一つも残っていませんし、何回か生まれ変わっているわけです。
細胞レベルではまったくの別人となって生きています。
ところが、私たちの認識としては、ずっと同じ身体で継続しているような感覚を持っています。
ずっと同じ身体が続いているような感覚があるのは、私たちの脳の記憶がずっと連続して繋がっていると思い込んでいるからです。
実は何も繋がっているものはないのですが、繋げることによって物語、ストーリーが生まれるので、その記憶を持ち込むことによって、人間社会の中ではで生きやすく感じています。
さて、身心一如といって、私たちは見える実体のある身体と、見えない実体のない心を道具として、コンビネーションを組みながら、動きのあるこの世界を生きています。
身体は宇宙原理の中で実体がある存在として生きていますが、心(自我・エゴ)の存在はいったいどこにあるのでしょうか?
ここでいう心(自我・エゴ)の定義のなかにある自我・エゴは、エゴイストといった意味とは違います。
心の中にある「私」という強力な感覚をいいます。
この「私」といった感覚は、幼少期に言葉を覚え始めた頃から育てられていきます。
はじめのうちは、親や周囲の人から名前で呼ばれるので、そのうちに自分は「〇〇ちゃん」なんだと認識をするようになります。
幼少期の時に自分のことを名前で呼ぶのはそのためです。
そのうち、自分の名前とは違う「人称代名詞(私・ボク・オレ・自分)」などといった言葉を大人から授けられます。
名前の代わりに「わたし・ボク」と言いましょうと!
成長期の身体の変化と相まって、思春期になると特に自我・エゴ意識が芽生え、「オレ」「ワタシ」が強力に育っていきます。
第二次成長期の反抗期はこの時期の大きな特徴です。
この感覚によって、周囲と自分との分離感、特別な存在感を意識するようになるわけです。
この時期にとってこれはとても大切で、この自我・エゴ意識によって、社会で生きていくパワーが生まれます。
これが強すぎる、あるいはコントロールが出来ない人は、周囲からかなり個性豊かな人などと呼ばれます。
さて、この「私」という強力な感覚ですが、どこにあるのでしょうか。
誰かが脳の中にいて、判断をくだす、総括責任者はいるのでしょうか?
私たちの脳は無数の意思決定センターで構築されており、他の意思決定センターのことは知る由もないと言われています。
これはコンピューターと同じです。
実は脳内に司令塔は存在していません。
司令塔がいないにも関わらず、あたかも誰かいるような錯覚を生み出している、すべての行動を決定していると思い込んでいる・・・「自己」「私」とは何なのでしょうか・・・
この幻想はあまりにも強力かつ圧倒的で、微塵の疑いもなく存在しているような錯覚に見舞われます。
実は、左脳のなかにあるインタープリター・モジュールが請け負っていると言われています。
私たちは五感をとおして、見たり、聞いたり、感じたりした情報を脳にインプットし、快・不快などの感覚を言葉に変換し、さらに解釈や意味づけをした脳の状態を、自分の外側に投影して、それを「私」が見て、あたかも外側で起こっている出来事と思い込みます。
これは脳の中で瞬時に行われています。
決して「あるがまま」「ありのまま」を見ているわけではありません。
すべては外側にあるのではなく内側でつくりだしていることです。
喜びであり、怒りであり、楽しみであり、哀しみであっても、ほぼ同様のうちに、脳の中で無意識に行われています。
「ある気づき」が起こらなければ、このようなシステムで物事のすべてを見ていることがこれからもずっと行われています。
このシステムを使っている生きている限り「苦」から逃れられないということを、釈迦は言っているわけです。
仏教、仙道、タオ、ヨーガにしても、「私」があると思い込んでいる、心のシステムに目覚めることが求められています。
頭の中に作られた、心・マインドの幻想を見抜いて、リアルな世界に気づくことです!
気・プラーナのトレーニングは様々あります。
気功、ヨーガ、仙道、太極拳などなど。
どのトレーニング法も最初は身体からは入っていくわけですが、ある一定のレベルからは、この「私」の認識機能に気づき変わっていかないと、その先に進んで行くことができません。
身体の世界のことだけではないのです。
なぜならば、人間があるいはこの世の中に存在している全てのものが、私たちの脳と心(自我・エゴ)によって作り出された頭の中の世界によって、認識(視覚・聴覚・体感覚・嗅覚・味覚)させられているということです。
自分の身体でさえも外側にある物質と同じ対象のひとつです。
見たり、聞いたり、感じたりといった日常生活のすべてです。
すべてが脳のなかで作り出された世界に閉じ込められており、ここから解放を図ることが第二弾のトレーニングの始まりとなります。
ここに気づくことがないと、自然と気・プラーナが少なくなっていくエネルギー漏れの状態が続きます。
トレーニングを行っている割にはエネルギーが増えていかないといった方もいらっしゃるでしょう。
気・プラーナを最大化するめには、思考による漏れを防ぐことと、さらに宇宙との一体化を図ることで、エネルギーとの分離感がなくなります。
宇宙との一体化とは、早く言うと、
「子供の頃のように戻りましょう!」
これに尽きます。
幼少期から言葉を覚えて、知識を覚えて、この世の中に適合するための、様々な努力を重ねて、私(自我・エゴ)を守ってきました。
周囲とうまくやっていくための気の使い方であったり、心配りであったり、もっともっと成長することであったり、昨日よりも今日、今日よりも明日といった、とにかく進んで行くことが良いことであると思い込んできました。
このときにたくさんの身体の緊張、エネルギーによる「鎧」をまとったままになっていることが多いと思います。
鎧を着こむことは世の中からは推奨されてきましたが、必要のないときに鎧を脱ぎ捨てることはまったく知る由もないところです。
大人になって多くの物を持つほど「私」と同化しそれがまた鎧となります。
多くの物をもって「私・自分」と同化していると、それを失うことを恐れるために、さらに強固な鎧となっていきます。
だから断捨離が必要なわけです。
この「鎧」「緊張パターン」を見つめて、必要がなければ脱ぎ捨てて、子供のころのような身軽な存在になることです。
これは覚悟を持って行わないと、なかなか出来ないことです。
普段生きている頭の中の世界は、言葉による解釈の私(自我・エゴ)が認識している世の中です。
この世の中は刺激が強く、苦しみであっても、この刺激による生きている実感の麻薬から逃れることができずに留まろうとします。
ですから、鎧を脱ぎ捨てる覚悟が必要なわけです。
鎧が少なくなればなるほど、楽、らく~になります。
以上の事から、身体のことはもとより、心(自我・エゴ)の存在と傾向に気づき、自己変革を図ることに力点が置かれることになります。
長いトレーニングが始まるかもしれません。
■脳の働きのバランスを整えること
1.私たち人間の心(自我・エゴ)のシステムを理解すること
私たちは五感から受ける情報を過大視しています。心(自我・エゴ)によって、私が見た、聞いた、感じた世界は絶対といった思い込みの中で生きていますが、これは限られた認識力であって、絶対視できるものではありません。
左脳の過剰な働きを理解すること(心(私・自我)の成り立ち)も必要です。
2.気・プラーナのトレーニングで左脳を静寂に導き右脳とのバランスを図る
左脳の過剰な働き(思考)を気の感覚によって静寂に導くようにします。
簡単にいうと、手に気のボールを作るトレーニングです。
頭の中で何か考え事をしていたり、心配事や不安が頭の中を占めていると、思ったように気のボールが作れません。
手のひらの感覚に集中して、あるイメージを加えることで、脳のバランスも整えられます。
3.身体と脳を意識で結び、エネルギーを集約させる
気・プラーナの本格的なトレーニングはここから始まります。
手のひらだけではなく、次は足で、そして身体の前面の経穴(チャクラ)で、さらには身体の背面の経穴(チャクラ)で感じるようにします。
身体と脳が意識で結びつくと瞬時に感覚が変わり、気・プラーナが集まってきます。
気の身体の感覚が拡大してくるので
■環境を調えること
1.住環境、職場環境の環境を調える(土地、住宅の建材、電磁波)
2.食材、水
3.口内環境(歯)
宇宙根源の「気・プラーナ」によって、「自由への道」を歩んで、宇宙との一体に戻りましょう