一切の生きとし生けるものは幸せであれ

一切の生きとし生けるものは幸せであれ

阿 純章(おかじゅんしょう)
天台宗圓融寺住職

 

【我(エゴ)をベースにした時代】

私たちが生きているこの時代は目まぐるしく変化しています。

そんな中、コロナが到来し、私たちの生活は激変しました。

この先の世の中がどうなっていくのか誰にもわかりません。

しかし、そういう時代だからこそ今のうちにこの世界がどういう方向に進んでいくべきかを考えておく必要があるでしょう。

振り返れば20世紀は今日よりは明日、明日よりは10年後、この先の未来には必ずキラキラと輝く理想の世界がある。

そう信じて前のめりに突っ走る時代でした。

目指すのは物質的にさらに豊かになること、そして誰よりも優位に立つこと。

「自分が、自分が」と力を競い会い、上か下か、勝ちか負けか、損か得か、そうやって未来に向かって引いたベクトル(矢印)の先には理想の社会がある、幸せな人生があると思っていました。

こんなふうに物質的な充足を求め、個人個人が競うように幸福を追求する社会というのは「我」(エゴ)がベースになっています。

「我(エゴ)」は絶えず何かと比較して自分だけが特別でありたいと思うのが性分です。

いつも「このままではいけない」と欠乏感を抱いてベクトル(矢印)の先を目指して走り続けます。

しかし、そもそも「我(エゴ)」の目的はベクトル(矢印)の向く先にあるゴールに到達することではなく、ベクトル(矢印)を引くことが目的なのです。

ですから、まるで頭の前ににんじんをぶら下げて走る馬のようにゴールには一向にたどり着きません。

いくらベクトル(矢印)のさした方に走り続けて幸福になる夢を見ても、結局は誰も幸せになれず、そこにあるのは孤独と不安だけです。

そういう社会を私たちは作ってしまいました。

希望あふれるはずの21世紀がやってきましたが、むしろ社会のあちこちで行き詰まりが見られるようになり、「あれ、何かおかしいぞ」と違和感を抱いている人の方が多くなってきているのではないでしょうか。

「我(エゴ)」をベースにした20世紀の神話はもう崩壊寸前なのかもしれません。

もちろん「我(エゴ)」をベースにした社会も決して悪いわけではありません。

そのおかげで物質的に豊かになり便利になりました。

むしろ「我(エゴ)」の絶え間ないモチベーションと努力には手を合わせて感謝すべきです。

でも「我(エゴ)」というのは諸刃の剣みたいなところがあって、暴走すると様々な問題を見出して人の心を苦しめてしまいます。

私たちはあまりに「我(エゴ)」の言いなりになりすぎていたということに、そろそろ気づき始めているのではないでしょうか。

そこで次の時代のテーマは「我(エゴ)」が引いたベクトル(矢印)から解放されることなのではないかと思うのです。

仏教で言えば「無我」をベースとした時代です。

 

【「無我」の時代へ】

「無我」といってもすべての存在が消滅して空っぽで何にもなくなってしまうような虚無的な世界ではありません。

また「無我」は「我(エゴ)」の対極にあって、「我(エゴ)」の世界とは別に「無我」の世界があるというわけでもありません。

目の前に広がっているこの世界も、今こうして生きている自分もそのままで既に「無我」の状態なのです。

それに気がつかずに「我(エゴ)」があると思い込んでいるだけに過ぎません。

どういうことかと言うと、この世界も自分という人間も自立して存在することはできません。

あらゆるものがつながって共存しているのです。

そういう関係性を「縁起」といいます。

「無我」と言うのはそれを否定的な言葉で表していますが、肯定的な表現で言えば、全ては繋がって一つである状態をいいます。

新型コロナウィルスによって分断と対立が起きているという話をよく耳にしますが、それは「我(エゴ)」をベースにした社会が作り上げてきたものです。

むしろコロナによって、今まで見過ごされてきた問題が浮き彫りになったといった方が良いのではないでしょうか。

白い紙に「私」と書いて見せて「何が見えますか」と尋ねれば、誰もが「私」と言う字が見えると答えるでしょう。

「私」と書いてある白い紙が見えるとは答えません。

「私」と同時に白い部分も見ているはずなのに、「私」だけにとらわれてしまうと、その周りにある余白に気づかないのです。

「私」の生き方、「私」の利益、「私」の目的、「私「の評価・・・。

「私」ばかりで余白がないと、「私」に縛られてかえって窮屈な生き方になってしまいます。

「私」に降りかかる様々な苦悩、ままならない人生を、誰かのせいだ、社会のせいだ、政治のせいだと、「私」の問題の原因を外に向けたがありますが、よくよく考えると自分の周りにある世界と自分が分断対立していることに要因があります。

「私」の問題は突き詰めれば「私」が問題なのです。

これまでは自分の目標のため、自分の人生を充実させるためにわき目も振らず走っていればよかったのですが、コロナの到来によって、その自分が引いたベクトル(矢印)がまるで蒸発するかのように見えなくなってしまいました。

それは確かに不安です。

しかしその一方で「私」ばかり見て生きていたのが、その周りにある余白に気づくきっかけにもなったかもしれません。

コロナは社会の実に様々なところに深刻な影響を及ぼし、私たちを混乱の渦に陥れましたが、広い視野で見てみれば、私たちの世界は「我(エゴ)」をベースにした時代から脱却し、「無我」の中でつながり合う調和社会を目指す歴史的な転換期を迎えているようにも思えます。

お釈迦様は「一切の生きとし生けるものは幸せであれ」(『スッタニパータ』)とおっしゃいました。

誰もが幸せに生きることのできる世界を作ることが仏教のスタートだったのです。

その仏教の精神を今こそ生かすべき時代がやってきたと強く感じます。

 

六波羅蜜シリーズ
『忍辱 真実を受け入れる』より抜粋