「今、いのちがあなたを生きている」

「今、いのちがあなたを生きている」

「今、いのちがあなたを生きている」

素敵な言葉があります。

 

??っと思うかもしれません。

「自分のいのちを生きている」とか「誰かのいのちを生きている」のではなく、「いのちがあなたを生きている」ということです。

そこに「今」がついています。

 

この言葉は浄土真宗の親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマとして、京都東本願寺に掲げられていたようです。

命というのは一つであり、「今」の連続性の中でずっと続いているものです。

命は連綿と続きながら伝えられており、私の命ではないということです。

 

「命」を「宇宙」や「エネルギー」に置き換えていただいたほうがシックリくるかもしれません。

私が生まれた時に、私の命が始まったのでしょうか。

 

これは肉体の誕生であり、命(エネルギー)はその前からありました。

そうなると、命(エネルギー)はどこからあったのでしょうか。

精子と卵子が結合したときに命(エネルギー)が誕生したのでしょうか?

それでは精子と卵子にはそれぞれ命(エネルギー)はなかったのでしょうか?

 

そんなことはありません。それぞれに命(エネルギー)は存在していました。

そうなると、お父さん、お母さんから命(エネルギー)を受け継いでいることになります。

お父さん、お母さんの命(エネルギー)は、それぞれの祖父母から引き継いでいます。

ずっと連綿と続いている命(エネルギー)を生きているということになります。

どこが出発点かもわかりません。

だから「私という存在」はもっともっと大きな命の、ひとつの現れなのかも知れません。

 

仏教で言えば、無量寿という永遠の命や、人はみな仏様の化身という意味もあるようです。

自分だけの個別の命があるわけではなく、ずっと古より伝えられ、すべてのものと繋がりながら、大きな命の一部として存在しています。

命というエネルギーが、生まれもせず、死にもしないものとして、連綿として繋がっていく存在としてあります。

OSHOで知られるインドのバグワン・シュリ・ラジニーシの墓石には、名前も刻まれておらすに「neverborn  neverdie」とだけ刻まれているそうです。

日本にも臨済宗の名僧、盤珪永琢(ばんけいようたく)禅師がおられて、「不生禅」を説かれています。

過去でもなく、未来でもなく、今ここで、命が私を生きるのなら、何かそこには、偶然ではなく大いなる役割があるのかも知れません。

 

命が実は自分のものではなく、与えられたもの、借りたものだとしたならば、このありがたい命を、どう受け取り、どう生きて、どうお返しするのか。

難しく考えたり、深刻に考えたりする必要もありません。

思い煩うことなく、大いなる命を今、愉しみましょう!

「今、いのちがあなたを生きている」